英語学習
Learning方法論
まずは、英語を読むこととは、いったいどんなことなのだろうかということについて、もう少し突っ込んだ話をしていこう。日ごろ敬遠されがちな「訳」という
ものの位置付けについても考えていきたい。その後で、実際に「見る」訓練をしていこう。書かれた文書を見て、文の左側から一つずつ“映像”を組み立ててい
く訓練をしていこう。
いわゆる文法というのは、「見る」ための補助手段、支援装置のようなものである。従って、文法がまったく必要ないとは言えない。名詞や動詞といった概念
や、主語や述語といった概念は少なくとも必要である。しかし、「見る」ことにおいて、いわゆる学校英語の文法というのは、支援装置になるどころか邪魔にな
ることすら多い。僕は「見る」訓練に際して、いろいろな説明をしていくが、その時の説明は、学校英語の文法ではない方が多いと思う。
邪魔である理由はいくつもある。まず、英語は左から右へと文が流れるが、学校英語だと右から左へ戻るような読みを支援する。しかも、単語等の分析をさせな
がら。なぜ、左から右へと順番に“映像”を組み立てていかなければならないのか?英語は左から右へと書かれるものだからだ。従って、“映像”を組み立てる
補助装置、支援装置である文法は、本来英文の左から右へと“映像”を見ていけるための補助手段でなければならない。しかし、いわゆる学校英語の文法は返り
読みの補助手段となってさえいる。
返り読みでは、英語はなかなか使えない。ネイティブスピーカーが彼らの母国語である英語を日常使うとき、いちいち後ろから前へ戻るような方法で読んだり聞
いたりしてはいないのだから、こちらも彼らの文の組み立て方に合わせねば、特にしゃべったり聞いたりするとき困ることになる。それは、僕たちが母国語であ
る日本語を日常使っているときのことを考えればわかる。僕たちは日本語を使うとき、返り読みのようなことはしないはずだ。していたら、相手の言うことを理
解するのに時間がかかりすぎて、コミュニケーションなど成立しない。分析と返り読みを支援する文法は、もう一つの理由で邪魔である。つまり、ある意味で、
間違っているということだ。英語は左から右へと読みながら、文の内容を映像として「見」て理解しているのだから、右から左へと読ませることを支援する文法
は不自然であり、おかしいということでしかない。
ここでいう「おかしい」というのは、学校英語の文法それ自体が根底から間違っているという意味ではない。この文法は、イギリスでもアメリカでも生徒や学生
が学校で学んでいる。彼らも「三単現のSが・・・」とやっている。しかし、日本ではそれが邪魔になる。ひとつは、日本語を使う人間にとって、その類の文法
は肌が合わない部分が多いということである。もうひとつは、文法項目の説明や理解の仕方が、向こうとこちらとでは異なっているということである。あらかじ
め英語を使って生きている人にとっては有効な文法だろうが、あらかじめ日本語を使って生きている人にとっては、あまり有効ではないということだ。その具体
的考察をしていたら、それだけで一冊の本ができそうなので、ここでは述べないことにしておくが。最後に、覚えるべき文法項目がある意味で「おかしい」のに
もかかわらず、その覚えるべきことが多すぎる点が、学校文法の邪魔な理由でもある。文法だけではない。たとえば熟語もそうだ。何千という熟語を学校では覚
えさせられるが、そんなにたくさん覚える必要はない。
一例をあげよう。たとえばto。toは、学校では一般に次のように説明される。まず、toは前置詞と不定詞に分かれる。前者は後ろに名詞を伴なうとき、後
者は後ろに動詞の原型を伴なうとき。前者は「へ」「に」、後者は名詞用法、形用使用法、副詞用法があり、それぞれは「こと」「ための」「ために」「そし
て」「とは」「もし~ならば」「なので」といった日本語にあたる。まずはこれだけのことを頭に入れなさい、と。そして、文を読んでtoがでてきたら、文脈
に応じて的確な1つの用法を選択して読んでいくように指示される。
しかしだ。果たして、そんな分析と選択をネイティブスピーカーがいちいちやりながら英文を理解しているだろうか?toの意味を理解するために、まずはto
の“後ろ側”
の単語を見て名詞か動詞かを理解してはじめてtoが前置詞か不定詞かを判断する。このとき、動詞があったとしよう。その場合は、さらに後ろを読みすすめ
て、その意味内容からtoが名詞用法なのか他の用法なのかを決める。ここまでやらねば、文の途中にあるtoという言葉が理解できない、などというのでは、
toの存在価値などない。彼らはtoについて、上のような膨大な知識を詰め込んで、分析することなどやっていない。彼らは、toはすべて「→」という記号
で“映像化”している。
本来toは→という記号を文字にしたものだから、それでいいのである。toの意味と称して、それにあたる“日本語”を9つも覚える必要などない。toにあ
たる日本語をいちいち覚えていったら、実際には9どころか20以上覚えねばtoは使えない。ちょっと厚めの辞書をめくってもらえばわかるだろう。toのと
ころにどれだけの数の日本語による定義が並んでいるかを。toの日本語を一々覚えてられないというときは、覚えきれないものを熟語かなにかに回して、さら
に覚えることを“学校英語”では推奨しているようだ。実に膨大な作業だ。
言葉というものは面倒くさいものはすべて廃れる。文法も発音もそうだ。現に日本語の「ゐ」や「ゑ」や「を」などという発音は、筋肉組織を通常よりこわばら
せなければいけないという非常に面倒くさい発音なので、この発音方法は消えてなくなっているではないか。もしネイティブスピーカーがtoについて上のよう
なことをしているとしたら、toなんていう言葉はとっくに消えてなくなっている。第一、読むのに時間がかかりすぎる。ましてや聞くとなったらどうするの
か?
僕のここでの説明は、君が新しく覚えることであると同時に、あくまでもこれまで君が学校で学んだ“ややこしく七面倒くさいこと”を訂正し、もっと簡単に、
そして正確に“映像化”できるようにするためにある。ともすると、「間違ったものをややこしく覚えさせられている」という事態に陥ってさえいるのだから。
新しいことを膨大に覚えてもらうつもりはない。むしろ、少なくし、かつ整理できるようにするものだ。
「見る」という意識さえあれば、たとえばtheという単語もよく理解できると思う。theは非常に重要だ。しかし、訳読至上主義をもって「theは『そ
の』という日本語にあたりますが、日本語で普通は一々『その』と言わないので、theは無視してください」という学校等での説明に洗脳されて、かえって英
文が何を言わんとするのかチンプンカンプンになっているという、とんでもない状況に陥っているのが多くの人の現状だと僕は見ている。
とにかく、そろそろ訳の完成だけをめざす英語学習を抜け出ようではないか。英語を使うこととは、英語と日本語の文字置き換えなどという表面的な作業ではな
い。英語も日本語も、人と人とが心を通い合わせるための道具だ。心を通い合わせるとは、体で実感することであり、個々がそれぞれの頭の中にある“映像”を
共有することである。読んでわかったというのは、「見えた!」ということである。英語でもっと人間をエンジョイしようではないか。