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英語学習

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「訳す」という行為とは?

話が「訳す」ということをめぐって進んでいるので、少し「訳すということ」について述べておきたい。「訳す」とは一体どういう行為なのか?

先に、「訳」とは、「英語→映像←日本語」という関係における一番右端の行為だと述べた。訳とは、英語から映像を作り上げて、できたその映像を日本語で何 と言うかを考えて、日本語にする行為である。映像を日本語でつかむ行為である。だが、実生活において実際に英語を使っているとき、「訳す」ことなどするの だろうか?

そもそも、言葉を読むとは情報を手に入れるという行為である。日本語の文、英語の文の差とは、その情報がたまたま日本語で書いてあるのか、たまたま英語で 書いてあるかの違いにすぎない。つまり、「内容」という製品の上にかぶっている「包装紙」がmade in Japanなのかmade in America (U.K.)なのかの違いにすぎない。日本語で書いてあれば日本語の包装紙を紐解いて中身たる情報を手に入れるのだし、英語で書いてあれば、英語の包装紙 を紐解いて中身たる情報を手に入れるだけの違いである。

実生活におけるその「紐解き」行為において、いちいち美しい訳を作り上げて、その訳を誰かに見てもらって採点してもらおうと考えたり、あるいは「OO級」 などといったグレードをもらおうと考えて行うだろうか?実生活で日本語を読んでいるときのことを考えればいい。ごく普通に読んでいるとき、だれもそんなこ とはしていない。もちろん、アメリカ人やイギリス人だって、英語を読むときにそのようなことはしていない。文の左側から右へ向かって目を滑らせつつ、その 意味内容を頭の中で映像として捉えていっているだけだ。

翻訳でも頼まれない限り、英文を実生活で実際に読むとき、いちいち美しい訳など作りあげることはない。実生活において英語を読むとは、「黙って内容に目を 通す」という行為になるはずである。そのとき、決して「訳がどうのこうの」なんて、訳にこだわることはないはずだ。つまり、本当の意味で「英語の文を読 む」という行為とは、「英語→映像←日本語」の関係の中の、「英語→映像」までの行為である。

とすれば、ますます訳すとは何だろう?ということになる。そこで、まず、「訳すという具体的な行為」について考えておく。先に触れたように、He walks to his schoolから出来た動画(映画)を見つめつつ、「この映像を“俺的”には、あるいは“わたし的”には、こう言う」と考えて、日本語でつかみに行く行為 が「訳す」という行為だった。翻訳者じゃなければ、どういう日本語でつかんでもいい。「奴はテクテク歩いて学校に行く」でも「あの人、徒歩で学校に行く」 でも「彼は学校に歩いていく」でも何でもいい。となると、現在30歳前半以下の人なら、sweetheartという言葉は、語尾を上げつつ「ヵれし」或い は「ヵのじょ」という日本語でその映像をつかむ人が多いはずだ。angryなら「ムカツク」、veryなら「超」というのが多いだろう。なにも英和辞書に 書いてある日本語でなくてもいい。英和辞書には英単語の「意味」というより、それに対応する「日本語の例」が並んでいるにすぎない。

以前、僕が担当していた10人ほどのクラスで、ある小説を読んでいたとき女性の描写があり、その中に“gorgeous legs”という言葉がでてきた。僕の人間性というのか、フェチ度というのか、とにかくそんなことを測るいい機会だと思って、下司の勘繰りとばかりに、学 生の頭の中を覗かせてもらおうと考えた。僕が「君の頭の中にある“gorgeous legs”の映像を、君なりの日本語でつかんでみんなに見せてください」と、ある男子学生を指名すると、彼は「ムチムチした足」と彼の頭の中にある映像を 日本語化して見せてくれた。この時、僕の頭の中にある映像とはいささかズレていた。そこで、次に隣の女子学生に尋ねた。すると彼女は「ムッチリした足」と 答えた。こうなると全員の頭の中を覗いてみたくなるというのが僕のクセであり、学生に順番に答えてもらった。すると、「肉感的な足」やら「叶姉妹のような 足」やらと、いろんな日本語がでてきた。いささか個人的趣味を暴露するような場になった感無きにしもあらずだが、もしもこれが「訳」のテストだったら、僕 は彼ら全員の答えに100点を与える。なぜなら、「訳」とはそういうものだからだ。

一人一人が、英単語から頭の中にぽっかりと浮かべた映像を見つめつつ、その映像を“わたし的”に、あるいは“俺的”に日本語でつかみに行くのなら、訳は絶 対に意味の通らないような日本語にはならないだろう。もし意味が通らないとしたら、それは英語ではなく、日本語に問題がある。また、個人個人が使っている “生の”言葉でつかむとなれば、一人一人の訳はみんな違うはずだ。巷でよく見かける和訳の模範解答なんて、ある意味ナンセンスとすら言えるのかもしれな い。個人個人の言葉は千差万別で個性豊かで生きている。和訳の模範解答など、あまりにも“強制的”すぎる。英文の意味するところの解答を本に載せるのな ら、それは日本語の文ではなく、漫画で載せるべしだと、“僕的”には思う。

和訳とは、実は英語の力だけの問題ではない。日本語の問題である。日本語のボキャブラリーが少ない人は、訳もへたくそになる。和訳のテストでは、英語の能 力とともに日本語の能力も試されているのだと考える方がいい。しかし、訳読式英語で一番問題なのは、純粋な英語力ではなく、日本語力の良し悪しで読みの力 が左右される、という点である。日本語を並び替えて、日本語から発想するだけに、日本語力に問題がある場合、その英文が何を言わんとしているのかわからな くなる。ひるがえって、翻訳家志望の人は、日本語の単語をいっぱい覚えるべし。

しかし、先に述べたように、実生活で英語の文を読むとき、いちいち訳すことはないのだから、結局、「訳ってな~に?」の問題にたちかえる。答えをそろそろ 出していこう。実生活から見れば、「訳」は、翻訳者を別とすれば、まず行なわない極めて異例の行為である。行なうとすれば、日本の学校という機関の、しか も週に数時間しかない教室の中でしか行われない、めちゃくちゃに特別中の特別の、“超”特別のレアな行為である。   

しかし、教室における「訳」は、映像化の訓練をするというのなら、まったく必要ないとは思わない。

まずひとつとして。「訳す」という行為は算数における“検算”のようなものだと思う。

英文を読むという行為は映像を浮かべる行為である、と言った。つまり、実際には訳は「読む」にともなわない行為である。しかし、英文を読む「授業」とは、 英文からきっちりとした映像を浮かべられない人のために、それをきっちり浮かべられるように訓練する場である。そうした場において、「映像が浮かびました か?では次」などと、どんどん進んでいくのでは、訓練生にとってはいささか心もとないはずだ。実践に向けた訓練である限り、自分の映像がちゃんと当たって いるかどうかを一人一人が自分で確かめる必要性は、少なくともあると思う。でなければ、一人一人は不安になると思う。他の人が頭の中に浮かべた映像と大体 同じであれば、その人は安心するはずだし、自分の読みに自信もつく。確認をしながら映像化に慣れていくのは実践で大いに自信になるはずだ。

各々が自分の頭の中にある映像を確かめるために、まさか他人の頭にドリルで穴を開けて中にある映像を覗き見ることはできない。従って、一人一人が、おのが 頭の中に浮かべた映像が合っているかどうかを“検算”する方法が必要になる。その“検算”こそ、「訳」だと思う。間違って欲しくないことは、先にも言った ように、訳は人それぞれが、それぞれの映像をそれぞれの日本語でつかんだ結果であり、つかみ方は個人の自由なのだから、映像の正しさに反しない限り、一字 一句合っていなければダメ、などということは全然ない。「訳す」という行為は、強制的な日本語を与え合う行為では断じてない。他人の口から訳として現れる 日本語を聞きながら、自分の頭の中にある映像を確かめること、これが「訳」の意味であり意義であると思う。反対に、自分が「訳」を言うとは、自分の頭の中 にある映像を確かめるべく、他人にその映像の正否を問い掛けてみる行為である。

もうひとつとして、「訳」とは英語を身につけるのにとても効果的な“方法論”だとも思う。たとえば、ヒアリング能力を高めるのに効果的な方法として、ディ クテーションがあげられる。ディクテーションとは聞こえてくる英語を書き取るという作業だ。これは、ただ漫然と英語を聞く以上にヒアリングの力を向上させ ることのできる効果的な作業だ。もちろん、聞こえてくる英語を正確に書けることが目標ではない。それはヒアリングの力を高めるための方法にすぎない。同じ ことが「訳す」という行為にも言える。頭の中にはっきりと「見えて」いないものは、実は「訳す」ことはできない。反対に、「訳」してみれば、自分が本当に その英文の意味しているところがわかっているのか、「見えて」いるのかが判断できる。「訳」さないでただ漫然と英語を左から右へと読んでいくより、「訳」 してみることで、自分にとってどこがわかないのかが見えてくる。従って、「訳」とは、英語の力を身につける方法的意味で、とても効果なものだ。もちろん、 「訳」そのものが英語の目的でも目標でもない。あくまでも、力を上げるための方法論にすぎない。

ただし、「訳」については、次のことを知っておかねばならない。つまり、先ほどから老言っているように、“語呂合わせ”的な訳ならやらないほうがいい。か つて、朱牟田夏雄先生は、英語と日本語との関係とは心理等価であり単語等値ではない、とおっしゃった。つまり、英単語の1つずつをそのまま文法に従って日 本語に換えていけば、意味がきっちりとわかる、というものではなく、英文を見て、そこにある英単語と並びから何を言わんとするか、書き手の心を読み取り、 その「心」の部分が日本語に置き換えられていくもの、ということである。要するに、“語呂合わせ”では英語はわからない、ということである。

もっとも、こうした感じで訳を考えると、かえって異常に訳に凝り始める人がいる。もちろん、それはそれでいい。先の“gorgeous legs”の例にあったように、訳は訳として面白いものであるし、また、一番しっくりくる日本語を探し出す作業がとても面白いことだと感じたなら、その人 は翻訳家の芽が出始めているということである。