英語学習
Learning外国語で読むとは、外国の眼鏡をはめて「見る」こと
左から右へと、英単語から映像を浮かべるという行為。これは日ごろ日本語から映像を思い浮かべて日本語でコミュニケーションを取っている日本語話者と同じ様に、アメリカ人やイギリス人などがコミュニケ-ションにおいて普段やっている行為である。
ところで、その左から右へと英単語を映像化していく行為だが、実は日本語話者とネイティブスピーカーではずいぶん映像の異なることがある。これは、専
ら、受験英語が問題になっているよう。たとえば、canとbe able toが「できる」という日本語を経由して「can=be able
to」になったり、「しなければならない」という日本語を経由して「have to=must」となったり、get
to=reach=「到着する」、It seems that SV=S seem to
V ~であったり・・・。「あったり」と連発した限り、これらはイコールではないのだ。
あるいは、This is an apple.はどうだろう?赤いリンゴを思い浮かべるだろうか?それとも別の色だろうか?beard on the
lipならどうだろう。beardは「ひげ」、lipは「唇」と日本語に置き換えて、「唇に生えたひげ~?・・・」と思い悩むひとも多いかもしれない。
たとえば、I come of KyushuとI come from Kyushu、あるいはI started to his roomとI
started for his
room。それぞれの2つの文では“映像”が違う。君が映画監督なら、それぞれどういう表情や行動を役者にとらせる?後者の2つの文における後者は、
himがIにとってのいわゆる「ヵれし」なら、見てる側まで頬がゆるまねばならない。言葉とは心の通いあいのための道具。大いに感情的に反応できねばなら
ない。
あるいは、受動態。これは能動態の主語と目的語の入れ換えにすぎないとか、日本語の「られる」に相当する言葉と考えていたら、危うい。しゃべったり手紙を
書いたりするとき、大いなる誤解を招くことすらある。あるいは、certainlyとsurelyは「確かに」という日本語にはなるが、使い分ける方がよ
ろしい。日本人は曖昧と言われることが多いが、それはyes
no以上に、日本語という言葉と英語という言葉の違いにある。つまり、言葉によって支配された文化の差。